ノックされたドアに向かって「どうぞ」と声をかけると、攻略対象者の一人であるジェイド・ベドガーがひょこっと顔を覗かせた。
「大丈夫か、ベルティア。倒れてたって聞いたけど」
「うん、なんとか。心配かけたね」 「顔を見たら安心した」ノアもそうだが、ジェイドの頭上にも好感度の数値が見えるようになっている。今まで見えていたわけではないし普通に生きてきたけれど、やはり『ベルティア・レイクの幸福』の物語が強制的にスタートしてしまったらしい。
《ジェイド・ベドガー 好感度:70%》
ノアに続きジェイドの好感度も意外と高い数値が出ていて、思わず笑ってしまった。ジェイドが怪訝な顔をしたので「なんでもないよ」と言うと、彼はあまり納得していなさそうな様子で勉強机の椅子に腰掛けた。
「王宮の馬車で送ってもらったって?」
「ああ、うん。ノア殿下がどうしてもと言って……そうだ、なぜ殿下が医務室にいたのか知ってる? 見つけてくれたのは殿下ではない生徒だったみたいだけど」 「それは俺も人づてに聞いただけで確証はない話だけど…倒れてるお前を発見した生徒が、お前に…その、手を出そうとしていたらしくて」 「……は?」 「性的にっていう意味じゃなく、お前のことを快く思ってない連中がさ。ベルティアをどこかに閉じ込めるとか、そういう話をしていたんだって。それで、たまたま通りかかった殿下が医務室に運んだって聞いたよ。様子を見に行こうと思ったけど、医務室のある棟は殿下が人払いを命じて誰も出入りできなかったんだ」 「なるほど……それは、殿下に感謝しないとだな…」結果的によかったと思ってはいるけれど、医務室でノアに冷たい態度を取ったのは人としてよくないことだったと反省した。ジェイドから話を聞かなければ事実を知らないままだっただろう。
もともと学園の中でベルティアの評判はよろしくない。ベルティアは男爵令息ながら優秀で、16歳の時に王立学園へ特待生として入学した。ただ、子供の頃と変わらずにノアと接していたら、どんどん悪評が広がっていったのだ。ベルティアを取り巻く環境は男爵家がある田舎の村とは違い、貴族社会の厳しい目が至るところにある場所。ノアはベルティアに変わってほしくないと言ったけれど、距離を置くようになった。
ちょうど同じくらいの時期にバース検査があり、ベルティアはアルファだと最終診断をされた。幼い頃からベルティアのことを好きだと言ってくれていたノアと結ばれる未来も絶たれ、ベルティアは更にノアを避けるようになったけれど、彼は変わらなかった。 それが巡り巡って『男爵家のベルティア・レイクが王太子殿下を誑かしている』という噂に変わったのだ。この国にはノアの婚約者になろうと目論んでいる貴族がごまんといる。身分もバース性も性別も何もかもが釣り合っていないベルティアを邪魔だと思っている人も、ごまんといる。
ただ、それを分かっていても、ノア・ムーングレイという男は最後までベルティアを信じる心を持つ厄介なキャラクターだ。良く言えば一途で誠実、悪く言えばしつこいストーカー。好感度が上がるにつれて、彼は後者になる。言わば好感度イコール狂気度と表現したほうが正しいかもしれない。「……あまり、殿下に近づかないほうがいいんじゃないか?」
「できれば俺もそうしたいけどね。ただ、近づいてるのは俺じゃない」離れようと一歩下がると、ノアが二歩踏み出してくる。ゲームをプレイしていた頃と同じで、なかなか難しいものがあるなとベルティアは苦笑した。
「レオナルドからも釘を刺された。ノア殿下とセナ様の婚約の話が浮上しているからって」
「聖なる瞳の? やっぱりそうなるか」 「妥当だろうね、それが。王太子と聖なる瞳が結婚したらこの国は安泰だし」 「確か、もともと平民だって。聖なる瞳の力が開花してフェルローネ伯爵の養子になって王族と結婚となれば、いまが人生最高に楽しいだろうな」 「言えてる」このまま順調にセナがノアルートを進んでくれたらいいけれど、こちらも何か行動しないと二人の仲は深まらないだろう。それに、ジェイドとも談笑している場合ではない。幼馴染だとは言っても彼も攻略対象者の一人で、縁を切るくらいの心持ちでいなければ。
「でも、ジェイドだって人生楽しいんじゃない?」
「俺が?」 「グラネージュ王国、最後の魔術師。卒業後は王宮に就職が決まってるし、婚約話だって引く手数多。婚約者の一人や二人そろそろ決めたらいいのに」 「そういうのは慎重になるタイプだから、さ……」ジェイドが生まれたベドガー伯爵家はグラネージュ王国の最後の魔術師家系だと言われていて、いわゆる絶滅危惧種のような貴重な存在だ。
――表向きは。
「ベルティアこそ、婚約者の一人や二人決めたらいい。そしたら殿下との噂もおさまるさ」
「そういうのに興味がないから。結婚だってするかどうか分からない」 「……それは、殿下と結ばれる可能性を考えているとかではなくて?」部屋の中にピリッとした空気が走る。ただその空気を出しているのはジェイドではなくベルティアで、小首を傾げながらジェイドを冷めた目で見つめた。
「体調を心配してくれたのは有難いけど、お前までそういう説教をするなら出ていってくれ」
わざとらしく大きなため息をもらせば、ジェイドは「やばっ」という苦い顔をして椅子から立ち上がった。
「ごめんって、そう怒るなよ」
「頭が痛くなった。また明日、ジェイド」半ば強制的にジェイドを部屋から追い出す。最後にちらりと見えた彼の頭上には《好感度:64%》の文字。少し冷たい物言いをして6%も下がるのなら、ノアよりも簡単に好感度を下げられるかもしれない。
ジェイドが部屋を出ていってからベルティアは勉強机に向かい、紙とペンを取り出した。覚えている限りのゲームの内容をしたためて、今までとこれからの状況を整理した。
「タイムリミットは半年。優先すべきはセナへの嫌がらせ、攻略対象者への行動……」
ゲームの本編でベルティアがセナに嫌がらせをしていた理由だが、いま思うとただ無視をしていただけのような気もする。関わらないように避けていただけで、それが曲解されて今日のような悪評になったのだ。
ただ、後半のベルティアは『確かな意志を持って』セナへの嫌がらせをしていた。その理由が明らかになるイベントはもう少し先。ただ、今から行動しないと半年なんてあっという間に過ぎてしまうだろう。「まぁ、どうせすでに悪評が立ってる悪役令息だし、嫌がらせの理由なんていらないだろ。とにかくセナをいじめまくって攻略対象者たちから引かれたらいいわけだし」
実際に誰かをいじめたことはないけれど、前世で培った悪役令嬢・悪役令息先輩を真似したらいいだけだ。
お茶に誘われたらティーカップをひっくり返してわざと服を汚したり、わざとぶつかって転ばせたり、怪我しない程度に実行してみよう。「ただ、あっちから近づいてくるとは限らないけど……」
できることならセナのほうから接触してくれたら、無視もしやすい。
――本編ではどんなふうに嫌がらせしてたっけ?
それを思い出せないのは、前世の自分がバッドエンドを目指していなかったからだ。どうにかこうにか攻略対象者と結ばれる道はないかと血眼になってプレイしていたものだから、セナへの嫌がらせという行動を全てスキップしていた気がする。
ダウンロードコンテンツをきちんとクリアしたわけではないし、圧倒的に知識不足だ。「……詰んだ?」
いやいや、弱気になるのはよそう。物語は始まったばかりなのだから――
「あのう、すみません。ベルティア・レイク先輩のお部屋ですか?」
……どうしてこうも、知らないことばかり起こるんだ?
ベルティアは天を仰ぎ、こんな試練を与えた神様を呪いたくなった。
ノックされたドアに向かって「どうぞ」と声をかけると、攻略対象者の一人であるジェイド・ベドガーがひょこっと顔を覗かせた。「大丈夫か、ベルティア。倒れてたって聞いたけど」「うん、なんとか。心配かけたね」「顔を見たら安心した」 ノアもそうだが、ジェイドの頭上にも好感度の数値が見えるようになっている。今まで見えていたわけではないし普通に生きてきたけれど、やはり『ベルティア・レイクの幸福』の物語が強制的にスタートしてしまったらしい。 《ジェイド・ベドガー 好感度:70%》 ノアに続きジェイドの好感度も意外と高い数値が出ていて、思わず笑ってしまった。ジェイドが怪訝な顔をしたので「なんでもないよ」と言うと、彼はあまり納得していなさそうな様子で勉強机の椅子に腰掛けた。「王宮の馬車で送ってもらったって?」「ああ、うん。ノア殿下がどうしてもと言って……そうだ、なぜ殿下が医務室にいたのか知ってる? 見つけてくれたのは殿下ではない生徒だったみたいだけど」「それは俺も人づてに聞いただけで確証はない話だけど…倒れてるお前を発見した生徒が、お前に…その、手を出そうとしていたらしくて」「……は?」「性的にっていう意味じゃなく、お前のことを快く思ってない連中がさ。ベルティアをどこかに閉じ込めるとか、そういう話をしていたんだって。それで、たまたま通りかかった殿下が医務室に運んだって聞いたよ。様子を見に行こうと思ったけど、医務室のある棟は殿下が人払いを命じて誰も出入りできなかったんだ」「なるほど……それは、殿下に感謝しないとだな…」 結果的によかったと思ってはいるけれど、医務室でノアに冷たい態度を取ったのは人としてよくないことだったと反省した。ジェイドから話を聞かなければ事実を知らないままだっただろう。 もともと学園の中でベルティアの評判はよろしくない。ベルティアは男爵令息ながら優秀で、16歳の時に王立学園へ特待生として入学した。ただ、子供
ノアが退室した後の医務室はがらんとしていて、何だか冷たい風が通っていくのを肌で感じる。医務室の先生はちょうど不在だったのか、室内にはベルティアだけが取り残された。「国外に追放されたあとは、どうなるんだろう……」悪役令息・ベルティアのその後は本編では描かれていなかった。『ベルティア・レイクの幸福』ではクリア条件を達成できなかったのでトゥルーエンドは知らないままだ。全員の好感度を0%にすると卒業パーティーを待たずにクリアと記載があったが、それができないと自動的に卒業パーティーの断罪ルートに進むらしい。ただ、現実的に考えて全員の好感度を0%にするのは不可能にも近いので、大体が断罪ルートになるだろうけれど、こちらも達成していないのでベルティアがその後どうなるのかは未知である。「国外追放されて、平民になって、慎ましく暮らす……まぁ、今とあんまり変わらないかも」国外追放されたらベルティアのことを知る者はいないので、今の状況のように後ろ指をさされることはなくなるだろう。そう考えると確かに『ベルティア・レイクの幸福』なのかもしれない。「失礼いたします。馬車が参りましたので、寮までお送りいたします」ノアに言われたので仕方なく馬車が到着するのを待っていると、しばらくして医務室のドアが開いた。ドアの向こうから現れたのはノアの側近であるレオナルド・ヴィステリアで、ベッドの上で膝を抱えているベルティアを冷たい目で見つめている。そんなレオナルドの視線にも慣れっこだ。この学園、いや、この国でベルティアのことを特別視しているのはノアくらいなのだから。「お手を煩わせてすみません」「いえ、殿下のご命令ですから」すんっと澄ました顔でベルティアを馬車まで案内するレオナルドの背中からは『本当にいい迷惑だ』と聞こえてくるようで、ベルティアは苦笑した。彼は表情がないように見えて意外と分かりやすい。「それでは、失礼します。殿下によろしくお伝えください」「……できることならば、ノア殿下を誑かさないでいただきたく思います」「え?」馬車に乗り込む前にもう一度謝罪をしようとしたベルティアに、レオナルドは眉間に皺を寄せて冷たい言葉を浴びせた。もしも彼が攻略対象者の一人であれば、頭上に表示される好感度はマイナス50%くらいだろう。それほど、レオナルドからは嫌われているのを自覚している。「聖
「お兄ちゃん、お願い! 何も聞かずに私のことを手伝って!」 泣きついてきた妹のお願いを断るわけにもいかず、何の気なしに引き受けたのが人生を左右した出来事だといっても過言ではないだろう。 妹のお願いにまんまと乗せられ、腐女子である彼女がハマっていた『聖なる瞳の幸福』というBLゲームに同じく沼落ちした迂闊さも、人生を左右した出来事だった。「なんでこうなるんだよ!」 イライラしたような、はたまた人生に絶望したような、そんな声をした青年がゲーム機に向かって話しかけていた。 その瞬間、ベルティアの脳内に青年がプレイしている『ゲーム』の記憶が大量に流れ込んでくる。そのゲームの舞台は『聖なる瞳の幸福』の世界。つまり、ベルティアがいま生きているグラネージュ王国の風景が頭の中に流れ込んできたのだ。 腐女子から圧倒的人気を誇る『聖なる瞳の幸福』は中世を思わせる、煌びやかでゴシックなファンタジーBLゲーム。魔法や妖精、王族などスタンダードな要素もありつつ、BLゲームとしての最大の要素は『オメガバース』という特殊設定だろう。 王族や貴族に多い、カースト上位の『アルファ』という、いわゆるチート属性。平民に多い『ベータ』という中間層。そして厄介なのが『オメガ』という最下層。 このオメガには女性も男性も関係なく発情期というものがあり、フェロモンを出して周りのアルファを誘う性質がある。定期的な発情期のせいで周りの異性や同性も関係なくフェロモンで誘ってしまうオメガは疎まれやすく、社会から冷遇されている。 そんな中『聖なる瞳の幸福』の主人公はオメガの平民でありながら特殊能力が開花し、伯爵家の養子になって王立学園に入学するところから物語はスタート。攻略対象者は第一王子、第二王子、魔術師、幼馴染の少女など。 そしてベルティアはすぐに自分の立場を思い出し、転生したという事実も理解した。ベルティア・レイク、男爵家の嫡男でありアルファの18歳。そして『聖なる瞳の幸福』の悪役令息。主人公に散々嫌がらせをした挙句、卒業パーティーで断罪されて国外追放を言い渡される。主人公は攻略対象者と無事ハッピーエンド。 今日、聖なる瞳であるセナ・フェルローネが編入してきたということは、タイムリミットはあと半年。「……は、ぁ…」 卒業パーティーの断罪や国外追放については、それでいい。 ただ問題なのは
彼の、美しい金色の瞳を見たときに体中に衝撃が走った。 別にあちらは睨んでいたとか警戒心たっぷりの鋭い瞳だったとか、そういうことではない。ただ、全てを見透かされているような、過去のことも未来のことも全てを知られているような『恐怖』にも似た感情を抱いた。 一度目が合っただけでそんなことを思うくらい彼の瞳は美しく、それと同時に嫌悪した。「――セナ・フェルローネです、よろしくお願いします」 セナ・フェルローネ。 耳馴染みがいいアルトボイスが丁寧な自己紹介をしてくれたのだが、ベルティア・レイクは目の前の出来事になぜか混乱して、何も反応できずにただただ息を飲み込む。 そっと差し出された手が幾重にも重なって見えるのはきっと幻覚で、あまりの衝撃にベルティアの目が現実を拒否しているためだ。思考や本能が彼を拒否しているような感覚があって、セナの手を握り返せない。 周りにいる生徒たちがザワザワと騒ぎ出し、いつものように「男爵家のくせに、差し出された手を拒否されてるわよ」「まぁ。王太子殿下の"お気に入り"はやはり格が違いますわね」といった陰口が聞こえてきて耳を塞ぎたくなった。「………すみません、失礼します」「あ、ちょっと!」 セナの手だけではなく人や物、建物までもが重なって見える。ずきんずきんと痛む頭を押さえながら、ふらつく足取りで建物の影に隠れるとベルティアは膝から崩れ落ちた。「は、はぁ……ッ」 割れそうなほど痛む頭を両手で抱えながらその場にうずくまると、頭の中には走馬灯のように映像が流れ込んでくる。ただ、その走馬灯の内容は自分が知らないものばかりで、他人の記憶を覗き込んでいるようだった。「何なんだ……っ!」 見知らぬ『誰か』の記憶。 大量の記憶が入り込んできて、容量を超えた頭の中はパニック状態。ぷつんっと何かが切れてベルティアの頭の中は真っ白になり、地面に倒れ込んだ。『心の準備ができたらSTARTを押してね!』「すたー…と……?」 意識が途切れる間際に聞こえた女性の声に導かれるように、冷たい地面の上でぴくりと指が動いた。